医師という仕事は本当に過酷だ。
扱うのが命や健康、一人間の肉体機能なのだから、簡単ではない。
ましてや日本は他国に類を見ないほど高齢化が進行し、患者数は増え続けている。
更に言えば、国民皆保険により「医療サービスを受ける」事が、もはや「当たり前の権利」になっている。地球を見渡せば、そんな恵まれた環境の国なんて無いのに。
そういった環境では、医師という仕事の労働は過酷さを増す。
仕事の大変さの質は変わらないが、仕事の量が増え、サービスの受け手は医療サービスを「当たり前」だと感じるのだ、その環境下での仕事が楽なわけがない。
僕はそんな過酷な環境がアホらしくなんて、逃げ出した。
結果、非常に快適で精神的余裕があり、時間的にも経済的にも余裕のある日々を過ごせている。
医師でありながら楽な仕事に就き、楽な働き方をする事はできるのか?
とはいえ医師でありながら楽な仕事になんて、就く事ができるのだろうか。楽な働き方なんてできるのだろうか。
答えはイエスだ。
それについて考えるにあたって、まずは医師という仕事、医師という労働に対する価値を考えたい。
医師の労働価値とは
医師の労働に対する価値は、下記のようになる。
- P(医師の労働の価値)=X(医師というだけで生まれる労働価値)+Y(医師の中でも洗練されたスキルによって生まれる価値)
ここでXとは、医師というだけで価値がある部分。つまり医師免許を持っている、医師であるというただそれだけで価値がある労働の事。
語弊を恐れずに言えば、健康診断などの業務の事だ。健康診断は別にこれといって医師の特別なスキルが求められるわけではなく、ただ医師免許を持っているという事実に価値がある。医師免許を取得するために投入した費用、人材の希少性に対する価値が反映されている。
一方でYとは、医師の中でもさらに「この医師でないとできない」という仕事についての価値の事。
例えば特殊な手術。とある医師しかできない手術があったとして、その手術をして欲しい、大金を支払ってでもして欲しいという患者がいれば、その医師の労働価値は高い。
医師でありながら楽な仕事に就き、楽な働き方をするという事
医師でありながら、楽な仕事に就くという事は、基本的にはP≒X、つまりY=0となるような仕事に就けば良い。
Yを高めれば、確かに自分の労働価値は増す。しかしYを高めるには辛い鍛錬を乗り越え、膨大な時間を費やさなければならず、不合理を受け入れなければならない。
そして仮にYを高め、合計値としてのPを高めたとしても、日本では税率が高まりたっぷりと税金が取られるだけ。自分が努力して付加したYという価値は、40%くらい税金として取られてしまう。
であるのなら、最初からY=0で、何の努力もせず得られるXだけの価値を享受し、税金もそれほど払わない。
僕はこういう選択肢もありだと思う。
誰もが強い人間じゃない。
Yを高める事から逃げる、最初からやめる、そんな選択肢があっていいはずだ。
みんな無意識のうちに、Yを高めなければいけない使命感に駆られている気がする。
そして結果的に体を壊し、燃え尽き、医師として働けなくなっては意味がない。
そうなるくらいなら、Xとしての労働価値を、細々と社会に提供し続ける方がまだマシなのではないだろうか。
医師として楽な働き方ができる、楽な仕事は
では具体的にどういう仕事があるのか、という話だが、大まかには3つある。
1つは健診。これほどP=X(Y=0)である仕事は無いだろう。
稀に臨床医としての経験が役にたつ時も、無くは無いが。
2つ目は献血。これもほとんど上記と同様、P=Xである。
たまに迷走神経反射で一過性低血圧になっている患者の回復を見守るくらいで、ほとんど何も起こらない。
3つ目は寝当直。これは上記2つに比べれば、PーX=Y>0である。
しかしこちらもそれほど特別なスキルは必要ない。スキルだけで言えば、挿管さえできれば研修医だけでもできるだろう。
幸いにも、医師は「医師というだけで価値がある」ような、珍しい職業だ。
医師という職業ほどXの価値が高い職業も、なかなか無い。
しかし、Xの価値とは医師達が過去に支払ってきた努力の対価であり、投入した時間に対する返金である。
それだけのものを投入したという事だ。
それを労働によってPという形にして受け取るのは、何ら当たり前の事だと思う。
別に後ろめたく思ったり、恥たりする必要なんて無い。
胸を張って堂々と、医師として楽な仕事に就いて、楽な働き方をしよう。